【書評】言葉の外からみた風景

 

 

 多和田葉子は1960年に東京で生まれ、82年にドイツへ移住した日本人作家である。高校時代に第二外国語としてドイツ語を学びはじめ、大学ではロシア文学を専攻していた。

 当時はまだ東西冷戦の最中であり、この時点でかなり特異な経歴である。

 卒業後は西ドイツに渡り、チューリッヒ大学で博士号(ドイツ文学)を取得する。91年に「かかとを失くして」で群像新人文学賞を受賞。さらに、93年に「犬婿入り」で芥川賞を、2003年に『容疑者の夜行列車』で伊藤整文学賞谷崎潤一郎賞を、11年に『雪の練習生』で野間文芸賞を受賞している。日本語の小説も書いているが、ドイツ語でも多くの作品を書いている。海外での評価が高く、近年はノーベル文学賞の候補としても注目されている。

 『エクソフォニー──母語の外へ出る旅』は、そうした経歴を持つ著者が03年に上梓した単行本である。12年には岩波現代文庫に収録されて、現在も順調に版を重ねている。私は初耳だったが、標題の「エクソフォニー」とは母語の外に出た状態一般をさすドイツ語のことらしい。一般的に母語以外の言語で書かれた文学というとき、そこには外的環境に強制された言語による文学というバイアスがかかる。亡命文学や移民文学、在日文学という分類は、ある種の志向性を持っており、決してニュートラルな言葉ではない。いずれも母語話者側の視点で語られている。筆者は、そうした母語以外の言語で書かれた文学を「エクソフォン文学」と呼ぶことで、新たな地平を見出だそうとする。それは次の言葉からも窺える。

「外から人が入って来て自分たちの言葉を使って書いている」という受け止め方が「外国人文学」や「移民文学」という言い方に現れているとしたら、「自分を包んでいる(縛っている)母語の外にどうやって出るか? 出たらどうなるか?」という創作の場からの好奇心に溢れた冒険的な発想が「エクソフォン文学」だとわたしは解釈した。

 自らも母語以外の言語で創作活動を続ける人の言葉だけに、「エクソフォニー」であることに強い思い入れを感じているようだ。特に、単一言語の中に留まっていると多くの言語的可能性を見落とすということを熱く語っている。一つの言語体系の中に安住していては、その体系の中でしか事物を認識することができなくなるということだろう。

 例えば、ペンとノートを持って外に出て、写生文を書くとする。目の前の風景を的確に捉えて、それを言語的に表現することは意外に難しい。なぜなら、普段、私たちは空間を自明の世界として認識しているので、ほとんど何も見ていないからだ。「美しい紅葉に染まる嵐山の風景は素晴らしい」は、写生文としては、何も語っていない。目の前の現実を「美しいもの」「すばらしいもの」とする固定した意識が、私たちの認識を歪め、世界を変形させてしまっている。すでに与えられた既成の概念で物を捉えようとしてしまう。

 言語そのものについても同じことが言える。筆者は本書のなかでこういうことを言っている。

ある言語で小説を書くということは、その言語が現在多くの人たちによって使われている姿をなるべく真似するということではない。同時代の人たちが美しいと信じている姿をなぞってみせるということでもない。むしろ、その言語の中に潜在しながらまだ誰も見たことのない姿を引き出して見せることの方が重要だろう。

 母語の監獄から出たとき、外の景色はどのように見えるのだろうか。私には分からないが、おそらく孤独なくらい美しい世界が広がっているのだろう。

 筆者は高校生のときには既に母語の檻から出ようとしていた。筆者を母語の外に駆り立てたものは何か。少なくとも、言語をコミュニケーションツールと捉えていないことは確かだ。私には、筆者は言語的自由を求めているように思える。それは、多言語を使いこなすということではなく、むしろ言語という枠さえ破ろうとする野望だ。あらゆる構文と発音の縛りから解き放たれて、言葉の意味の外から世界を見ようと言うのだ。言うなれば、筆者は、我々人類がまだ言葉を操れなかった時代に遡ることによって、原初の世界を捉えようとしているのかもしれない。