【書評】少者よ汝の少き時に快樂をなせ

 

 

情事 (集英社文庫)

情事 (集英社文庫)

 

 

私はすばる文学賞が好きで、最近の受賞作は大抵読んでいる。この「情事」という作品は、1978年に第二回すばる文学賞を受賞した小説で、森瑤子氏の小説は今回が初読みとなる。短い小説で筋に分かりにくいところもないが、それだけに読者を選ぶ作品でもある。

 あらすじを要約すれば、35歳の既婚女性が年甲斐もなくパブで外国人を漁って房事に耽る話なのだが、これだけ聞くと、善良で健全な思考を持った多くの読者諸君は離れていってしまうかもしれない。実際、どうしようもない年増の浮気女の話なんて、読む必要性を感じない人が大半だろうし、何も知らない方がよほど幸せに人生を暮らしていけるというものだろう。

夏が、終ろうとしていた。

見捨てられたような一ヶ月の休暇を終えて、秋への旅立ちを急いでいる軽井沢を立ち去ろうとしながら、レイ・ブラッドベリや、ダールの短編の中に逃げ込んで過ごした、悪夢のような夏の後半の日々を、考えている。そして、エルビス・プレスリーの突然の死をFM放送で聞いた八月の半ば、私の中で、青春の最後の輝きがまたひとつ、確かに消えていったのを、識った。

 冒頭を飾るこの印象的なイントロダクションは、英文を日本語に翻訳し直したような独特な匂いを沸き立たせている。海外文学のような空気感を漂わせながら、どこか気取った書き出しで物語は始まる。

 主人公ヨーコは、英国人の夫を持つしがない翻訳家で、本当は文芸翻訳をやりたいのだが、ウーマンリブの座談会のテープ起こしに燻った毎日を過ごしているキャリアウーマンだ。夫には既に女として興味を持たれなくなって久しい。愛し合って結婚したはずなのに、今ではお互いに如何に無関心でやり過ごすかについて共謀し合う共犯者同然の夫婦生活を送っている。うら若き日々は遠ざかり、齢すでに酣に入ろうとするとき、ヨーコの肉体に駆け巡ったのは抜き差しならぬ性欲だった。この小説は、抗いようなく過ぎ去っていく夏に、自分の女としての最後の花盛りを迎えんとする終焉の物語だ。

 一体、結婚というものは式を挙げたが最後、お互いの異性としての関心が消えていってしまうのは何故だろうか。夫の愛を繋ぎ止められず、着実に摩耗していく自分自身の魂に気付いたとき、人はどうしたらいいのだろう。年を重ねるごとにため息をつき、得ることよりも失うことに慣れたとき、妻として、あるいは母親としての役割の中でしか自分自身を確認できなくなったとき、女は死んでいくのだろう。だが、ヨーコは──不幸なことにと言うべきか──無抵抗に死を待つほど弛緩されてはいなかった。

 男女の間に沸き起こる感情のすべてを嘗め尽くしたヨーコは、しかし、男と関係を持っても性愛以上の領域に足を踏み入れようとはしない。愛に執着したならば、必ず憎しみ合うことを知っているからだ。

深いかかわりがなければ、人を思いやったり優しい言葉を掛けるのは、なんと容易なことだろう。愛しさえしなければ、人を理解し、はるかに多くを識り合えるだろう。愛しさえしなければ。

 愛に散々傷つけられてきたヨーコは、セックスに溺れることで、惰眠を貪ってばかりいた「女」を取り戻そうとする。だから、パブでレインと出会ったとき、ほとんどその瞬間から彼に魅せられ、彼を愛しはじめていたにも関わらず、ヨーコは無意識と眩暈の中で、結婚はしていないと嘘をついてしまったのだった。ヨーコは大胆なようでいて、臆病な女性だ。口ではただセックスだけを求めているように嘯きながら、内実はレインを愛しはじめている自分に戸惑い、傷つくことを恐れている。35歳というデリケートな年齢に差し掛かり、最後かもしれない愛のチャンスを、情事以上の関係に発展させることを恐れている。抵抗を試みながらも、落陽の余映に輝く夕空に自分自身を重ねて、いつか終わりが来るものと予感してしまっている。

 何も知らないレインは、ミステリアスなヨーコの言動に次第に不信を募らせ、憎しみ合うようなセックスに興じる。そして、ヨーコは憎しみ合うほどにレインを深く愛するのだった。夫と別れてレインと一緒になった方が幸せだったのか、それは分からない。ただ、ヨーコはこの先二度と性に駆り立てられることはないだろう。今やサンセットの輝きは失われ、人生の第一幕が終わりを告げた。しかし、太陽は没しても人生はまだまだ続いていく。再び引き幕が開くまで、まずは祝杯を上げよう。過ぎ去っていく夏と、これからのヨーコの弥栄を祈って。──チアース